プライドとそれにまつわる話

今日はプライドについて思ったことや感じたこと、感慨深い思い出も書いていきたいと思います

 

プライド、誇りといえば良いイメージやかっこ良い話もあると思う

 

でも、誇りを持ちすぎるとそれは良いものから悪いものへと変わって行くのだと私個人は考えている

 

仕事に誇りを持つこと、それはとても素晴らしいのだと思う

しかし、それが行き過ぎると今までの経験則や常識から当てはまらないからと言って全てを否定し、未来の芽を摘むことになるかもしれない

 

要は加減なのだと思う

プライドがない人は、自信がなく不安な日々を送り続けることもある

この場合は、毎日不安を感じるので辛いと思う

 

逆にプライドを持ち過ぎると、自分のみを信じ周囲の人の意見を取り入れなくなる

これが続くと起きるのは大きな失敗

そして、最悪の場合はその失敗の根本的な原因にも気付かず周囲の所為にして終わる

 

程よく誇りを持ち相手の意見を聞くことができるなら、プライドは実に良いものだと思う

 

話をだいぶ変えるが、私は小学5年生の頃にプライドを捨てた

というよりも壊れた

 

小学校や中学校などでは、卒業生を送る会や修学旅行が終わった後の発表で、クラスごとや学年毎に何人かがお笑い担当をすると思う

私のいた小学校は全校生徒が700人おり、時には親御さんも観客席に加わりより多くなった

 

このお笑い担当は基本的に滑り、笑うのも低学年だけというレベルのことが多かった

 

当時の私のクラスでもそのお笑い担当を決める日になり、多数決で決めることとなった

 

その投票前、友人Aに友人Bを投票しようと持ちかけられた

その時の私は、純粋に面白そうだと思いその提案に乗っかることにした

どうせBはお笑い担当にならないだろうと考えて

 

投票の結果、クラスの中でも毎日みんなを笑わせる子がいたのでその子に票がほぼ全員分入っていた

票の結果は黒板に書かれていたのだが、そこには2票で当選した私の名前もあった

 

最初は意味が分からなく、混乱した

暫く時間が経って、私が友人Aと友人Bに嵌められたのだと理解した

 

もしかしたら、Aも私が当選するとは考えていなかったのかもしれない

そうであってほしい

 

それがまさかの2票で当選

その他は私を除き1票が2人程いた気がする

 

正直にいえば私は泣きたかった

しかし、毎日人を笑わせる子(面倒なのでこの子はCとする)がお笑いを大勢の人の前でやりたくないと言って泣き出したので、そんな状況で2票の私は泣くに泣けなかった

内心泣きたい中、Cが泣いてるのでみんながそれを慰めようとするも原因はクラスのほぼ全員のせいで結構ギクシャクする

そんなクラスの中で、たったの2票で当選した私はほぼ関係のない存在

泣いてるCを見て、私も泣きたいのにと心の中では涙していた

 

この時のことを、私は一生忘れないだろう

というより忘れる気は無い

 

結局はCと私でお笑い担当をすることに決まった

私とCでどの芸人の真似をするか議論した

当時の私は記憶力がない方だと自負していたので話すことが多いのは出来ないと考えていたので、ボケ役がいいと言っていた気がする

当時は、はんにゃや我が家、が有名でオードリーも有名になり始めだった

 

そうゆう訳で、私達はオードリーをすることにした

勿論、話すことの少ない春日は私の役だ

 

オードリーをやると決めた際、プライドを捨てるか話すことの多いものを覚えるかの二択を迫られ、私はプライドを捨てることを選択する

 

私とCは練習としてクラスの前で、発表した

結果はクラス全員が笑うという快挙を成し遂げた

 

そして、運命の本番の日私達5年生を除く全学年と親御さんの前で、プライドを捨てた私とCで発表した

 

他の学年の多くの人が笑い、親御さんまで笑っていたので大成功といっても過言ではなかったと思う

 

私は忘れないだろう、この出来事を

私が胸を張り時折、Cに向かってヘッと言ったことを

プライドを捨てざるを得ない状況になってしまったことも

 

そして2人で大成功を収めたことも

 

今日は以上で終わりです

 

次回も日常生活であったことや思ったこと、感じたことなど書いていてます

大衆について思うこと

今日は大衆について思ったことや感じたことを書いていきたいと思います

 

大衆、私はこの言葉に金魚のフンのようなイメージを持っている

はっきりと言ってしまえば、これも偏見の内のの1つなのかもしれない

 

大衆という言葉を私はあまり好きになることができない理由はいくつかある

その内の少しを書いていく

 

例えばテレビで◯◯は栄養にいいという内容を見たとする

その場合、全員が全員◯◯を買おうとは思わないかもしれないが、恐らく大勢の人が出来れば買おうかなという考えを持つ事になると思う

 

そこで問題なのが、普段から◯◯を買う人が、その情報を知った他の大勢の人に先に買われ売切れになってしまい、買えなくなってしまう場合だ

 

これは非常にまずいことだと思う

テレビで放送したからと、その情報は安心だと思う人が多くいるかもしれないが、これがもし洗脳させる為のものだとしたらどうだろうか

 

それとは別に、普段から◯◯を病気を治す為の薬として買っている人がいるとしたら、とても迷惑な話ではなかろうか

 

簡単な話、私は現代の大衆は物事をより深く考えない傾向があるのではないかと思い、好きになれない

 

人は脳があり考える力を持ち、言語も発達している動物なのだ

それなのに、その考えることを放棄し続けたらこの頭は無意味ではないか

 

少し話が脱線したかもしれない

 

震災の時も、原発事故の時も、大衆は物事をより深く考えることをせずに、発言することが多いように感じた

 

発言することは大事だとは思う

しかし、誰かから与えられた情報のみで判断した発言より、自ら動きその情報について詳しく調べ理解した上で判断した発言の方が物事をより正確に捉えることができるのだと思う

 

だから、自分から調べ理解したわけでもないのにその情報について意見するのは間違いだと思う

 

今までいろいろと思うことを書いてきたが、大衆は考えが足りな過ぎることがあると私は思うので、行動する前に一度より考えらことをしたほうがいい気がする

 

これは私が思う大衆のイメージと現実の大勢の一般人の偏見の一種だと思うが、もし当てはまる部分がある人がいたら少しずつ頭を使うことをして欲しい

 

今日は以上で終わりです

 

次回も日常生活であったことや思ったこと、感じたことなどを書いていきたいと思います

不死 安定志向

今日は不死と安定志向ついて思ったことや感じたことを書いていきたいと思います

 

不死についてはふと思ったことなので、軽く見るといいと思う

 

生きとし生けるものは全て死ぬ

生きているから死ぬ

では、死は生があるからこそ存在すると言える

 

そもそも、生まれなければ死は存在しない

と考えると私たちは有の存在だから生まれ死ぬ

無になれば、死も生も存在しない

 

こういう風に考えてみると、不死は無の存在になれば実現可能なのかもしれない

 

不老不死について思うのは、私たちが人間である限り、不死よりも難しいのではないかと思う

 

死ぬということは、その前に必ず生まれたということだから

死を克服したいのなら、そもそも生まれなければいい

この地球で生きている存在を有だとすると、産まれることのなかったものが無

無というのは、生死が関係なく永遠のものなんだと思う

 

少し話を変えるが、安定志向で考え行動している人は多いと思う

しかし、私たち、有の存在は無とは真逆で時間が存在し変化し続ける

本来、安定とは真逆の流れの中で生きている

それでも、日々を過ごしていると毎日が同じように感じるので、その平穏を続けようとするのだろう

 

よく考えてもらいたい

その平穏は少しづつ終局へ向かっているが、その変化は微々たるものなので気付きにくいだけなのだ

人は産まれた時から死へ向かい歩いて行く

 

だから人生を適当に生きるというわけではない

逆に人生に自分なりの目的を持ち行動したほうがいいと思うのだ

 

現在の環境に満足し停滞するのではなく、より良いものを求め前進した方が、後悔が少ないと思う

よく聞かないだろうか

しない後悔よりやった後悔

私は行動せずに後悔するよりも、行動して後悔する方が好きだ

 

自身を向上出来るときから進んで行動し、チャンスがあれば例え失敗する可能性があるとしても、すべてを失うわけでないのならやってみた方がいい

 

その行動した経験というのは、人生において大きな成果となり今後の自身に活きてくる

 

だから、私は安定を求めるより冒険し夢に向かって進んで行動するほうがいいと思う

 

これで終わりです

 

次回も日常生活で思ったことや感じたことを書いていきたいと思います

インスピレーションの素

今日はなんとなくインスピレーションの素について思いついたことがあるので書いていきます

 

小説を書く際、話を頭で考えたりふと思いついたりすることがあると思う

 

これは私がふと考えてみたことなので、妄想だと思ってもらっても構わない

 

それで本を書く際などの思いついた話は、私たちには見ることや行くことが出来ない世界を認識できたということだとする

 

作者が考えた話の世界観というのは、私たちには認識することは出来ないけれど、実在し異なる次元に存在していると思う

 

それで、その作者はふとした時にその世界を認識してインスピレーションが湧いたように感じるのではないかと思う

 

だから、作者が脳内で考えた物語が普段は認識することのできない世界だとすると、私たちが考えたり思いついたりしたと思っていた話は、実際はただ認識し見つけただけということになってしまう

 

こう考えてしまうと、よくインスピレーションが湧くという人というのは、異なる世界や別次元の世界をよく認識出来る人ということになる

 

もしそのインスピレーションの素が私たちが認識出来ないだけで、存在するのだとしたら面白いと思える

 

それと少し似ているかもしれないが、寝ている時に見る夢も異なる次元の世界だと私個人は考えている

 

私の夢の場合、現実の感覚とよく似通っていて、匂いやフルーツの感触、食べ物の味にも違和感は特に感じない

強いて言うなら、視力が現実よりもいいことくらいだ

 

そして、夢の世界では行ったことも見たこともない世界をよく見かける

その時の私はそれを初めて見る景色だとは認識することは出来ないが

 

少し話がずれてしまったが、インスピレーションが別次元の世界を認識した際の映像だったり、感覚だったりしたとしたら、この現実から別の次元へ身体ごと行く方法もいずれ分かるかもしれない

 

今回は妄想みたいなものです

 

次回は日常生活で思ったことや感じたこと、考えたことなどを書いていきたいと思います

慣れるということ

今日は慣れについて思ったことや感じたことを書いていきたいと思います

 

人は誰しも「慣れ」に助けられたり、苦労したりしていると思う

 

私は「慣れ」を恐ろしいと思う

確かに私たちは生きている中で様々なことに慣れて、初めて見たものに抱いた印象も、回数をこなすごとに何も感じなくなってしまう

それとは逆に、学習面では慣れるということは実に役立つものだと思う

 

この「慣れ」だが、使われ方次第で良いものになったり悪いものになったりする

 

習慣という言葉がある

それがその人にとって良いものであるなら別に問題はない

しかし、悪いものであると悪習とも呼ばれる

 

私が恐ろしいと思うのは、その人の匙加減で「慣れ」という存在は良いものや悪いものの両方になる可能性があるということだ

 

人の気持ちの持ちようで慣れは様々な事柄に作用していく

普段の生活で、自身の生活を向上するために慣れを使用していくなら問題はないと思う

しかし、犯罪を犯した際に慣れが働いてしまうと、問題しか残らない

 

慣れるということは、最初に感じていたこと(初心の心)を忘れ去り、効率の良い行動をすることが可能になることだと思う

だから、慣れ始めてきた頃が一番注意が必要だと言われるのではないだろうか

 

私は別に慣れることが悪いことだとは思わない

 

そのときの心の持ちようが肝心だと思うのだ

 

初心の心を忘れてしまった人は、この「慣れ」について今一度考えて行動してもらいたいと思う

 

今日は以上で終わりです

 

次回も日常生活で思ったことや感じたことについて書いていきたいと思います

死について

今日は死について思っていることや感じたことを書いていきたいと思います

 

私は少し前に、死について考えたことがある

 

以前2度ほど、このままでは死ぬかもしれないと本能で感じた経験がある

今でも、あの時に抵抗しなければ死んでいたのではないかと思う

もしも、その時に死んでいたら、死について考えて生きていなかったので、後悔しか出来なかっのではないかと思うので少し怖い

 

今では、いつ死んでもそこまで後悔しないようにしている

簡単に言うと、自分の好きなように生きている

だから、後悔しても少しだけだと思う

 

死とは、いつ来るか分からない災害のようなものだと私は思っている

それでも、最期には人は必ず命を落とし死ぬ

突然訪れるような死は災害のようなものだけど、歳をとると必ず死は訪れる

死を悪と決めつけるなら、災害よりもタチが悪いかもしれない

 

ひとまず私は死について考えて思ったのは、その瞬間が訪れた時、後悔したくないということだった

だから死を考えたときから、いつ命を落としても好きなように生きてきたから、死ぬ瞬間にこれで命を落としても仕方がないかなと思えるようにしようと思いながら生きている

 

そうは言っても、やり残したこと等があれば少しは後悔するかもしれないけど

 

私が理想だと思う死に方は、歳をとり布団の中で横になりながら、子孫がいるならその人々に囲まれながら、楽しい人生だったと言って笑いながら亡くなることだ

 

死について、よく考えておかなければ後々後悔するのは自分自身でしかないと思う

歳をとれば、それだけ死に近づいて行く

また、知り合いも減って行く

 

その時に、死について考えればいいかもしれないが、不意に来る衝撃と既に来ると分かっている衝撃はどれくらいの差があるのだろうか

分かっているときのほうが少しマシなのではないかと思う

 

それでも、人はこうやって毎日を生きていることが普通だと思っているので、そうそう死について考えることはないのかもしれない

結局のところは、その人が進む人生なのでどう行動するかはその人本人次第だ

 

少し話を戻して、私が思う死後についての考えを書く

歳をとれば、地位や名誉、お金などは多く手に入っているかもしれないが、死後にそれを持ち込むことは出来やしないと私は勝手に考えている

 

だから、死について考えるなら、まだ若いときのほうがいいのかもしれないと思う

 

結局、人では死に抗うことは出来やしないのだから

 

今回は以上で終わりです

 

次回も日常生活で思ったことや感じたことなどを書いていきたいと思います

責任感ってある種の覚悟だと思う

責任感について思ったことを書いていきたいと思います

 

突然だけど、責任感ってある種の覚悟を決めることが必要なことだと思う

 

ある仕事を任されたとして達成しなければいけなくなったとしたら、その仕事が完了する最後まで見守ったり、作業したりすることが責任感を持つってことなのだと思う

 

たまに、その仕事を失敗して取り返しがつかなくなったから、責任を取るために今の立場から降りて他の人に任せるみたいなことを言う人がいるかもしれない

これは、責任をを取るってことではなくて、簡単に言うとただの逃げの行為なのだと思う

 

仕事で達成しなければいけないことを失敗したことで何かしらの罰があるのかもしれない

それでも、それを受け入れた上で、失敗を反省し挽回するようにすることが責任を持つということなのだと思う

 

少し話は変わるが、私は変なところで覚悟していることがあったりする

小学生や中学生くらいの頃、友人たちは信号もない道路などで車が来ないかどうかの確認はしていたと思うが、平気で信号無視をしたり道路を渡っていたりしていた

それに対して、当時の私は信号無視や飛び出しをして轢かれたらどうするんだと思っていた

それで私の場合は、信号無視や飛び出すときはもし車に轢かれて死んだとしても、それは自分の行動の結果なのでしょうがないとある種の覚悟を持つようにしていた

多分、こんなことを考えて信号無視をしてる人は全然いないのだと思う

 

少し話はずれたかもしれないが、自分の行動に最悪な結果として死が訪れてもしょうがないなあと思うくらいの覚悟を持っていれば、責任感についても特に問題はないのではないかなと思う

もしかしたら、少し違うかもしれない

それでも、責任を持つということは、覚悟を決めることと同じだと思うので、もし最悪な結果が訪れてもそれを受け入れたり、どう次につながるかを考えたりした方がよほどいいと思う

 

以上で終わりです

 

今日は私の誕生日だったので、なんとなく2つのことを書きました

次回も日常生活であったことや思ったこと、感じたことを書いていきたいと思います