よくわからない存在

今日はよく分からない存在についてあったことなどを書いていきたいと思います

 

私はちょうど2年ほど前に、幽霊なのか宇宙人なのか、超常現象なのかよくわからない存在を目撃した

時刻は夕方の5時ごろだと思う

季節は夏で、7月22日のこと

 

あの時は、大学の授業も早く終わったので友人から聞いた下宿までの近道を通って帰ろうとした

 

結局のところ、道に迷ってしまい地図のアプリを使うと、下宿に帰るまでにかなりの遠回りをすることが分かった

それでも、時間があったので散歩する気分でその道を辿って行くことに決めた

 

途中までは、田舎の風景を見て写真を撮ったりリラックスして鼻歌を歌ったりと上々の気分だった

下宿に帰るときに通る最後の大きな角を曲がってしばらくした頃だった

道路の左手には軽く森みたいに木が多くあったのだが、開けた場所がありその奥に明治時代ごろに建っていそうな西洋的な洋館があった

周囲の木の高さは2、30メートルほどあると思うのだが、その洋館もちょうどその木の最高部分と同じ高さだった

もしかしたら木はもう少し大きいかもしれない

(道路にいた私と洋館との距離はおよそ50〜100メートルぐらいはあったと思う)

 

と言っても、かなり廃れており窓はガラスが割れており室内から真っ白いカーテンが出ていた

これを見たときに思い浮かんだ言葉は、廃屋だったと思う

ちなみに、窓の縦のサイズは異様に長く20数メートルはあり、左と右に1つずつあった

 

散歩してその横に来た時は、初めて明治ごろの洋館を見たのでこんなところにあるもんだなあ、いいものが観れたくらいの気持ちだった

 

ハッキリ言って、普通の状態ならまず窓の異常な大きさに気付くことができたのではないかと思う

なぜなら、洋館の大きさを考えると1階はもちろん2階もあるはずなのに、洋館の窓は縦に異様に長かった

窓は1階と2階で別れずにくっついていたのだ

正直に言うと、私はこの時生まれて初めてその長さの窓を見た

そして窓の上部分から1階の地面部分まで垂れているカーテンも、何かおかしいと思えたのかもしれない

 

それで、その洋館の廃屋から道路側まではまるで獣道のように一筋の道が出来ていた

後で思えば、この道はおいでおいでと私を誘っていたのかもしれない

この時、本当のことを言えば少し洋館に近づこうかなと思ったのだが洋館までの道のりが出来ているので、誰かが管理しているのかもしれないと思い踏みとどまることが出来た

後近くに壊れた自転車が捨てられているのをみつけ、その獣道を通ろうとする気待ちが小さくなった

その道以外は、草がボウボウと生え廃屋まで行こうという気になることさえなかった

 

そんな廃屋の、私から見て左手側の窓と対面になった時、私が歩く速度と同等の速さでカーテンが風に吹かれて動くように、ゆらゆらと揺れながら動き出した

私が歩く速度と同等で平行に

 

そのときの私の頭は、どうかしているみたいだったがその現象の仮説を数個思いついた

それでも、そのほとんどが現実逃避に近かったが

例えば、そのカーテンはちょうど私が白い服を着ていたので、鏡に反射したから白いのが見えているのだとか

廃屋の洋館にお参りに来た、そこの屋敷で育った人達の子孫のお爺さんが私と同じ速度で動いているからだとか

 

最期の仮説は、風が吹いているからカーテンも動いているのだろうと思い、私は動かしていた足を止めて風を感じようとした

 

結果は残酷と言えるのかもしれない

風はこれっぽっちも吹いてやいなかった

 

私の頭はショートしながらもただ動くカーテンを見つめていた

そのカーテンは屋敷の角まで移動すると森のある方向に直角に曲がり消えてしまった

 

私はそれを見たことを忘れられずに、足だけを動かしその場を離れた

少し離れたところに普通の住宅があった

 

その住宅は道路から5メートルもない場所に立っていたのだが、その玄関の扉よりも先程見たカーテンのほうが大きく視えたことを思い出し、人ではないものを見たと思い背筋が寒くなった

 

あれは、人外だったのだと

 

他にも、不思議だったと言えるのはそもそも私は裸眼だと遠くまでのことはよく見えないのに、どうしてかよく細部まで見えていたのかなど

 

少し長くなったのでこれで終わりにします

 

今度余裕があったらその後の続きや思ったこと、これからしようと思っていることについても書いていきたいと思います

小説を読んでいる時の登場人物について

今日は小説を読んでいる時の登場人物について思ったことや感じたことを書いていきたいと思います

 

小説を読むときって、必ずと言ってもいい程、登場人物が出てくると思う

 

そのとき、私の場合は登場人物を頭の中でなんとなくこんな感じかと想像する

他の人には正直あまり聞いたことはないので、小説を読む際の登場人物は自分で想像した存在なのか、実在する人やアニメなどにいるものを使っているのかは分からない

 

私の場合は、顔の造形についてそこまで深く考えて想像することは全然ない

だからだろうか、1度自分で想像した男性の顔についてどんな顔だったかと疑問に思って、深く考えてみたら、今まで曖昧にも想像できていた顔が黒いもやもやしたものに包まれて全く分からなくなってしまったことがある

 

ちょうどそのときは、本を読みすぎて頭が疲れていたのもあったのかもしれない

それでも、想像した存在の顔が全く分からなくなったことはなかったので、すごく驚いたことを覚えている

 

それからは時々、他の人は本に出てくる登場人物をどのように設定しているのか気になってきた

 

1度、妹2人に登場人物について聞いたことがある

上の妹は、登場人物はなんとなく想像しているだけで実在する人などは使ったことはないとのことだった

 

下の妹は、登場人物の顔をまず最初によく考えて設定するらしく、実在する人も使ったことはないらしい

 

ふと疑問に思ったことだった登場人物についてのことだったか、他の人は既存の存在を使っているのか、自分の頭の中で創造した存在を使っているのか、どうなのだろう

 

以上で終わりです

 

次回も、日常生活で思ったことや感じたことなどを書いていきたいと思います

先の我慢か後の苦労か

今日は面倒だと思うことについて思ったことや感じたことを書いていきたいと思います

 

生きていれば、面倒だなと思うことはよくあると思う

最近、友人が今出来ることを面倒だからといって後回しにしているのをたまたま見た

 

それを見て私は、すぐに出来ることなら忘れないうちにやったほうがいいのにと思った

 

面倒だからといって後に回しとくと、気が付けばより面倒なことになって自分に降りかかってくることがある

私は面倒くさがりで、よく体験するので本当に気をつけたいと思う

 

やはり、すぐに片付けることのできることなら先にやってしまったほうがいい

後に回して後悔はしたくないものだ

 

それでも、後に回すというのならば「覚悟」をするべきだと思う

私の言う「覚悟」とは、面倒なことを後に回したことによって、自分にとっての様々な苦労や取り返しのつかない事が起きても、人のせいにせずに全てを受け入れると言うことだ

 

この「覚悟」があるなら、先に出来る面倒なことも後回しにすればいいと思う

ただ、時折本当に苦労するので気をつけてもらいたい

 

今日は少ないけどこれで終わりにします

次回も日常生活で思ったことや感じたことを書いていきたいと思います

 

違和感を感じて

今日は違和感について昔の思い出と思ったことや感じたを書いていきたいと思います

 

 私は高校生だった頃、いつも違和感を感じていた

その高校はいわゆる進学校だった

でも、国公立の大学に進学している人はとても少なかった

当時、親は大学に行くなら国公立じゃないとダメだと口を酸っぱくさせる程言っていた

だから、勉強しなさいと

私も初めは中間試験や期末試験、模試などで結果を出そうと思っていた

それでも、勉強をするやる気が出ない

勉強をしても集中できず暗記モノも覚えられず、計算するにも公式が頭の中に入っていないので、テストは惨憺たる結果しか出してこなかった

 

そしていつしか、いい大学に入るために勉強を頑張りなさいと言われても、心の中に言いようもない違和感を感じるようになった

 

大学に入るために勉強をするっておかしくないかと

勉強って、自分が知らないものを知るためにする行動の1つではないのかと

他にも勉強以外にもあるのではないかと

 

そう心の中で思いながら勉強をしてきた

今ひとつやる気も起きずに

そうやっているうちに高校3年生になった

 

合格祈願のために神社でおみくじをひいた

結果は大吉

内容は今でも覚えている

確か、努力をすれば願いは叶うとかそう言う感じのもの

 

それをみたとき、大学受験は心底どうでもよくなった

何が大吉だ!

今まで全力ではなかったかもしれないが、それでも頑張ってきた

それなのに、まだ努力が必要なのかと

 

その後は一応勉強はしていたものの、心の中では何が大吉だ!ふざけるな神さま!と思っていたので、全然成績は上がらず逆に下がっていった

 

結果、国公立の大学なんて入れるわけもなくもちろん落ちた

 

そして、親には大学に行ったら頑張るからと言い、今では私立に行かせてもらっている

 

高校では勉強勉強と勉強漬けの日々で、将来何をしたいのか、何になりたいのか考えることが少なかった

そもそも将来何になるかなんの仕事をしているのか、私自身わからなかった

そんな中、親や教師に勉強しろや頑張れなど言われ、ただ言われたままに行動してきた

 

だから、恐らく違和感を感じていたのだろう

自分で将来何になりたいか決めずに、大人の言われるままにただただ勉強をしていたから

 

違和感を感じたその時に、ただ感じたままに自分らしく行動すればよかったのかもしれない

例え、周りからなんと言われようとも

 

高校の頃感じた違和感をどうにかしていたら、今の私とは異なる人生を歩んでいたのではないかと思う

 

今の私は、私立の大学に入り自身の思うままに行動しているので違和感など感じることがない

そして、昔は嫌いだった私自身もこんな私でもいいかなと思えるようになってきた

 

だから今思うのは、今後社会に出てもしもこのような違和感を感じたとしたら、周囲に流されず例え否定されても自身の道を進んで行きたいということ

 

以上で終わりです

 

今度も日常生活などで思ったことや感じたことを書いていきたいと思います

 

 

本と現実の違い

今日は本と現実の違いについて書いていこうと思います

 

突然だけど、本と現実の違いについて考えたことのある人っているのかな

 

私は以前、ふとした瞬間に考えたことがある

特に意味のないかもしれないけれど、思ったことを書いていくことにする

 

本では、「地の文」と呼ばれる会話以外の文が存在する

「地の文」には、大きく分けて2種類のものがある

1つ目は、人の感情や行動の描写

2つ目は、背景の描写

この2種類の描写がないと本を読んでいる最中に、その場面を想像するのは難しいかもしれない

 

逆に、現実では当たり前だけど「地の文」なんて存在しない

その代わりというのはなんだけど、人は心の中で考え事をしたり、出来事に対して感情を抱いたりする

背景に関しては、大方の人が目を持っているのでそれを通し脳で認識している

 

本では文章で表現していることが、現実では背景や出来事を目で見て心の中で考えたり、思ったりしていて、時に口を使い「会話」として表現している

 

本の「会話文」についても考えてみる

これに関して言えば、文章で書いているか口を使って話しているかの違いぐらいかな

あとは、思ったことや考えたことを話しているのは現実でも本でも変わらないと思う

 

あと、現実では自分が主人公なので、人生を物語に例えると1つの物語にしかならない

当たり前だけど、体験出来るのも1回きりだ

しかも、本みたいに「あらすじ」なんてものはないので生まれてから死ぬまで、どの行程を経るかは人それぞれだからどこでどう転ぶかは分からない

 

本は、過去や現在の様々な人が書いた、法則や経験、壮大な人生の物語、架空の物語などがある

現実では1度の人生で体験出来ないことが、本では容易に体験したように感じることが出来てしまう(実際に体を使って体験したわけでもないのにだ)

 

ここまで、割と好き勝手書いてきたが、本と現実では様々なことが違うが、本は人が一生を賭けて見つけた法則や経験を知ることが出来るものなので、余裕があるなら読んでみたほうがいいと思う

 

以上で終わりです

今度も日常生活で感じたことや思ったことを書いていきたいと思います

強要する言葉

今日は、強要する言葉について書いていきたいと思います

 

よく「〜するべきだ」とか「〜しなければいけない」とか言ったり、言われたりすることがあると思う

 

これって、常識として考えると〜するのが当たり前、当然だという思いがあるような言葉な気がする

 

「〜するべきだ」とかよく言う人って、その人の中での常識を他人に強要させようとしているのかもしれない

本人にそれを意識してるか無意識のうちにやっているかには関わらず

 

だからなのかな、私はあまり「〜するべきだ」とか「〜しなければいけない」のような言葉は使わないようにしている

脳内では〜しなきゃなあとは思ったりはするが、いざ他人に話すときには「〜したほうがいい」や「自分ではこう思うけどどう行動するかはその人次第かな」みたいなことを言う

 

強要する言葉は、組織内でルールや規律を守るために使うのならそこまで問題はないと思う

 

ただし、普段の生活で強要する言葉を多用するのは間違いだと私は思う

 

その人がどう生きるかはその人の選択次第なので、自分の中で常識だと思っていることを相手に強要するのはおかしいと思う

私が理想だと思うやり方は、相手の考えを聞き行動する理由を知り、あえて非常識な行動をしているのか、意図せず非常識な行動をしているのかを判断する

そのうえで、意図せずに非常識な行動をしているなら自分の中の常識を語り、あえての行動なら特に自分の考えを話す必要はない

ただ、相手があえて非常識な行動を行い周囲に迷惑や災いが起きるなら、こちらも相手を止める必要があるかもしれない

 

ひとまず、私が言いたいことは「〜すべきだ」などの言葉は、その人の中の常識を相手に強要していることだと思うので、無闇にその言葉は使わないようにしてもらいたいということだ

 

常識というのは、その枠外からすれば非常識になる

そのことを理解したうえで、「〜するべきだ」などの言葉を使用するのなら私は構わない

 

それもその人個人の自由だと思うから

 

しかし、他の人から反感を買ったとしても自己責任なので気をつけてもらいたい

 

今日はこれで終わりです

こんな感じで日常生活などで、思ったことや感じたことについて書いていきたいと思います

 

性善説 性悪説

今日は性善説性悪説について考えたことを書いていきたいと思います

 

その前に性善説性悪説について軽く説明するよ

 

性善説は、人は生まれたときはみんな良い存在だという感じ

 

性悪説は、人は生まれたときから悪い存在であるって感じ

 

これはふと思いついたことなんだけど、人って生まれたときは純粋なんじゃないかと

だから、その後の生活環境次第で善くもなれば悪くもなるのではないか

 

人は生まれたときは純粋だから常識を理解していないうちは、興味を持った事柄にその子なりの考えで行動していく

その子は常識をまだ理解しているわけではないので、大人からすれば突拍子のないことをする

でも、その突拍子のないことが、善い方に転ぶか悪い方に転ぶかは分からない

 

そして、成長するにつれて人は環境次第で、考え方が善い人は結果的に性善説が当てはまっているように見え、逆に考え方が悪い方は性悪説が当てはまって見えるようになる

 

ただ性悪説の考えで、自分の利益になるが相手が損するようなとき、人は自分の利益だけを考え、相手のその後の人生が滅茶苦茶になると知った上でも、自分の利益になるように行動する

だから、最初から相手を信じずに疑って行動しろみたいなものがある

 

私が言いたいのは、人は生まれたときは純粋だった(善も悪も知らない状態)

だから、この世の常識を教えられたときに自然と欲望についても学んでしまい、自分は得するが相手は損する状態のときに、欲望が顔を出してきてどのように選択すればいいのかと考えているときに邪魔をしてくる

今までの生活環境で、善い考え方をするようになった人は、その欲望が出てきても比較的簡単に相手が損することを選ばないと思う

逆に、悪い考え方をするようになった人は、欲望に負け自分の利益をとってしまうだろう

また、その欲望が出てきたときに迷ってしまう人は、善い考え方と悪い考え方の両方を持ってるといえると思う

 

よって、私は性善説性悪説も人の特徴を捉えているとは思うが、生まれたときは純粋でありその後の環境次第で善か悪かの考え方の比重が決まってくるのではないかと思う

 

次回も何を書くかは決めてませんが、日常生活であったことや考えたことを書いていきたいと思います